2014年3月30日日曜日

はじまりの前夜




3月最後の日曜日。
なんだか、ひと区切りついたような気がする。


2月後半から3月前半は、小学校で研究授業をさせていただいた。
とにかく毎日必死で、実際に授業をしている時間はもちろん、そのほかの時間も授業準備、教材研究、振り返りと、わたわたと過ごしていた。
帰って来るとばたんと寝てしまって、夜中に起きてシャワーを浴びるということも多かった。
研究授業の前週、コンタクトレンズが眼の中で割れて眼球が傷ついてしまうという事件もあった。
(眼科に一週間で三回行った)
でも、授業が終わってしまうとさみしくて、子どもたちにすぐ会いたくなっている自分がいた。

3月2週目に研究授業が終わってから、今日まであっという間だった。
手帳を見ると、とにかく人にたくさん会っている。
友だちに会い、先輩に会い、会いたいひとに会いに行き、ご飯を食べ、お酒を飲んでいたらしい。
びっくりするほど、たくさん出かけたような気がする。
映画館、美術館、ライブ、展示、日帰り旅行、上野動物園、先輩の結婚パーティー、句会、ブックトーク、本屋、プラネタリウム、ワークショップ、などなど。

それまで我慢していたものを発散するように、大きく伸びをするように、
とにかく行きたいところへ行った。
その合間になぜか片道1時間半かけてアルバイトにも行っていたので、ほとんど家にいなかった。


そんな日々も、今日でひと区切りだ。



今夜、久しぶりに会ってゆっくり話した人たちのことを、何て言ったらいいのだろう。
年齢はわたしよりも上だけれど、先輩と呼ぶにはすこし違う気がする。

話してみて、あの場所にいたことで、すとんと心のなかに箱が置かれたような気分だった。
わたしはただ聞いていただけだけれど、世界が少しずつ立体的になっていくような。
あの、何とも言えない感覚を、ことばにすることはむずかしい。
帰り道に、ああ明日からの日々を大切に生きよう、と思えた。
そんな一瞬があっただけで、もう何だかそれでぜんぶよくなってしまった。




3月はあと一日残っているけれど、もう4月の気分。
明日から、がらっと生活が変わる。
新しい日々のはじまり。言い訳をしない。

2014年3月11日火曜日

光のあるほうへ

ようやく、書こうという気持ちになった。



今日、エキレビであまちゃんに関するレビューを読みました。
▽アキとユイの未来と北三陸鉄道のその先。今だから解く「あまちゃん」のメッセージ(与儀明子)
http://a.excite.co.jp/News/review/20140311/E1394461201955.html

昨年の紅白歌合戦の「あまちゃん」を、また思い出しました。
大晦日、テレビを見ながらぼろぼろ泣きました。

実家では、物心ついたときからずっと、朝ドラを見ていました。
ひとり暮らしのアパートにはテレビがなく、「あまちゃん」は実家に帰ったときだけ見ていました。
通院のために週に一度は帰省していたので、そんなペースで。
8月末に2週間くらいまとめて帰省したときには毎朝見るようになり、9月3日からの震災編は、妹に録画してもらって、ぜんぶ見ました。




これまでずっと、わたしは3月11日のことについて話したり書いたりできずにいました。
Twitterでは定期的に震災の話や原発の話が出るし、授業でも、原発の話が出ることもある。
友人のなかには実際に東北へボランティアに行ったひともいる。
ただ、わたしはどうしても、まっすぐに向きあったり考えたりすることができない、と思っていました。




震災の日、2011年3月11日。大学にいて帰れなくなったわたしは、いちばん先に「だいじょうぶ?」と連絡をくれた友だちの部屋へ泊まることになりました。
その子はサークルの同期で、それまでにも何度か部屋に泊めてもらったことがありました。
テレビから流れてくる地震や津波の映像を見ているわたしの顔を心配して、友だちは「テレビ、消そうか?」と言ってくれました。
なんとか夕食を食べ終えて、同期の安否確認もほぼ終わったかな、というとき。
ひとり、連絡が来ていないことに気づきました。
その瞬間、その子はちょうどその時期帰省すると言っていたこと、その子の実家は地震の被害が大きそうな地域にあることを思い出し、ばくばくと呼吸がうまくできなくなりました。
どうしようもなくて、何もできなくて、不安で、ふたりで泣きました。
(後日、その同期からは無事だと連絡がありました)
寝る前に、避難場所を確認して、普段着のうえにコートを着たまま布団に入りました。
余震が続き、真夜中に目覚めてはふたりで「だいじょうぶ」「だいじょうぶ」と言い合ってもう一度眠る、ということを繰り返していました。



昨年4月からひとり暮らしをはじめたアパートは、震災の日に泊めてくれた友達の部屋をそのままゆずり受けました。
部屋をゆずり受けるとき、震災のことはほとんど思い出しませんでした。
でも、自分が部屋の家具を置くとき、同じ配置を無意識に避けていたことに、今になって気づきました。

実は今でも実家に帰ると、寝る前に、今夜地震が起こったら何を持って避難するかを考えます。


今年の夏休み、友だちと岩手へ旅行に行ったとき、新幹線の中で読んだパンフレットの「大船渡」「石巻」といった名前を、わたしはきちんと見ることができませんでした。



震災に関して自分から「動いている」わけではないのに、震災に関することでぐらんぐらんしてしまう自分。
気になるなら本を読んだり情報を集めたりすればいいのに。
実際に行ってみればいいのに。
何もしないのに、すぐにぐらんぐらんしてしまう自分が、なんだかすごく嫌でした。



「あまちゃん」は、皆がきちんと生きているのがすごくすきでした。
人が頑張れる度合いは個人差があるけど、手を抜くことなく、自分の「生」を使い切っているところが、すごくすきだった。
かっこつけるときもあるし、全部投げ出したいと思うときもあるし、だけどそれを全部ひっくるめて、人間なんだと思います。そういうところがすごくすきだったのだと改めて思いました。

アキちゃんの「生きてる限り大事じゃねえ時期なんてねえし」という言葉は、何度思い出してもぐっときます。
「あまちゃん」は、たくさん笑えてたくさん泣けて、生きているってすごいな、と思わせてくれました。





自分には何ができるか。自分は何をしているか。
そんなことを突きつけられているような気持ちに、勝手になっていたけれど、自分のやるべきことはずっと前から決まっていて、ひたすらに生きていくことではないかと最近思うようになりました。
その過程にあるひとつひとつの箱を開いて、中を確かめて、意味づけていくことなのだなあと。
(もちろんこれはわたしの捉えかたで、ほかのひとに押しつけるつもりはまったくありません)
少なくとも今は、そう思っています。

今までの、いろんなことは、ぜんぶぜんぶつながっている。




「あまちゃん」を最後まで見てほしかったな、と思うひとがいます。
今会えたなら、どんな話ができるだろう、と思います。
もう夢の中でしか会えないし、夢の中でもなかなか会えない。
そんなひとから、もらったものがたくさんあります。
「別にあげたわけじゃない」って、そのひとは絶対言う。でも、それでもいいんだ。
「勝手に分けてもらったんです、いいんです」って、言ってやりたい。



それぞれが、それぞれの生を引き受けて、毎日を過ごしていく。
すこしでも、光のあるほうへ。
いい風が吹くほうへ。

2014年3月2日日曜日

ぐらんぐらん

電車の中吊り広告に、ビールの広告が多い。
サントリープレミアムモルツ、アサヒスーパードライ、キリン一番搾り。
どれも、一口だけ飲みたい。


そうだろうな、とは思っていたけれど、集中力もやる気も長く続かないということをつよく自覚するようになった。
これじゃだめだ、と心がぐらぐらすることは多いわりに、途中でけろっとそのことを忘れてしまう。


昔からあなたは飽きっぽい、ひとり遊びをしているときもそうだった、と母親に言われる。
「おままごとをしてるかと思えばリカちゃん人形を出してきて。そしたら急にピアノを弾いたり。飽きっぽいのがずっと心配」
でも、わたしの中では、つながっているのだ。
おままごとをしているとだれか登場人物がほしくなり、リカちゃん人形を出してきてひとしきり遊び、
ミュージカルのように、動かしながら歌っているうちに、音楽がほしくなってピアノを弾くのだ。

今でもそういうことはよくある。
友だちの話を聞きながら、そういえばああいうことがあったな、と思い出し、
友だちの話が終わったところで、その思い出した話をはじめる。
「○○で思い出したんだけど」と話しはじめるとき、たいてい友だちの話からは遠く離れたところの話をしてしまう。

連想が次の連想を呼び起こして、どんどん進んで行ってしまうのだ。



集中力もやる気も続かなくて、これじゃだめだ頑張らないと、と思ってもすぐ忘れてしまうのなら、
何度でも立て直せばいい。
立て直すチャンス、振り返る機会を、細かく自分でつくればいいのだ。
と、今は思っている。