2015年1月28日水曜日

『ひとつの歌』をみた



杉田協士監督作品『ひとつの歌』をみた。
この映画が渋谷で公開されたとき、ちょうど教育実習と大学院入試と卒業論文が重なっているいちばん忙しい時期で、どうしても渋谷まで行くことができなかった。

今回、『ひとつの歌』が荻窪ベルベットサンで上映されるということで、やっとみることができた。
杉田監督が書いた小説「ひとつの歌」(すばる2月号掲載)を読んでから行こうと決めたけれど、小説と映画が全然ちがったらどうしよう、と思って一度だけ読んでいった。

映画をみたあとにトークの時間があって、「小説を読んでから映画を観たひとに話を聞いてみたい」ということになり、監督に指名された。
わからなかったらどうしようと思っていたけれど、わかるとかわからないとかじゃなかった、と感じたことを話した。

そのときはうまく言えなかったけれど、いま思うのは、小説よりも映画のほうが、何もない時間がたくさんあったということ。
ベンチにただ座っているだけとか、バイクに乗せておいたヘルメットが地面に落ちるとか、
そういうこと、ことばにすると「意味」が加わってしまうような、でもそれは「意味」のないということでその世界に存在しているような、そういうことがいくつもあった。
暗いトンネルから出たときに、ふたりがバイクに乗っていることが見えること、バイクに乗っている背中も、ミラーでどんな表情なのかがわかること。そういう一つ一つのことが、たまらなくすきだった。
わかるとかわからないとかじゃなく、そこにあった。
小説を読んでいるとき、映像がなんとなく頭にうかんだけれど、それとはちがうことがたくさんあった。部屋のものの配置も、映しかたも、ちがっていた。まったく当たり前のことだけど。想定外というのともちがう、そのことがなぜか、よかった。自分というものの範囲以外のところで、何かがあること、それをながめる。
あと、子どもたちへのまなざしがすきだった。駅前を歩く制服の小学生、道路を二列で歩いている幼稚園生たち、ワークショップに参加する子どもたちなど。


写真を撮るとき、できればその場で起こっていることをかっこよく、美しく、そのまま撮りたいと思うきもちがどこかにあるような気がする。
でも、この映画に出てくるポラロイドカメラは、フィルムは高いし、撮るまでに時間がかかるし、コンパクトとは言えないし、写真もちいさい。
でも、そういう、輪郭のはっきりしない、小さなものが、記憶なんだと思う。この映画は、記憶の映画だ。



映画をみているとき、スクリーンの奥にガラスの壁があって、外の道路がすこしだけ見えて、たまに車のライトの光がぐうっと真っ暗な部屋にはいってくることや、
杉田監督が床に体育座りをして映画をみている背中。

帰り道は小雨が降っていたけれど傘がなくてそのまま歩いて駅まで行ったことや、
空き缶が音をたてて道路を転がっていったこと、
いつも巻いているストールを忘れてしまって首元がすこし寒かったことなど。
そういうこと、いつかわすれてしまうかもしれないけれど、映画とは直接関係ないことかもしれないけれど、そういうことが重なって、映画がわたしだけのものになるような気がする。

会場には映画に出演している枡野浩一さんもいらっしゃって、久しぶりにお見かけしたのですが、やっぱりやさしい方だなあと思いました。席のゆずりかたが、スマート、ではなくて、やさしい。

杉田協士監督は、枡野浩一さんの『歌 ロングロングショートソングロング』(雷鳥社)という短歌集で写真を担当している。この短歌集が、とてもすきだ。
ひとり暮らしをはじめてまだ本棚がなく床に本を積み上げていたときに、友人が家に遊びに来て、
この本を見るなり「貸してほしい」と言って借りて行った。短歌にも写真にも興味がない子だったのに。
杉田監督の映画ワークショップを受けたとき、この本にサインをもらった。


さよならをあなたの声で聞きたくてあなたと出会う必要がある (枡野浩一)

『歌 ロングロングショートソングロング』の帯に書かれたこの短歌を、わたしは大切に思っています。この歌のことを書いた文章を、いつか、ここにもまた書きます。



『ひとつの歌』、またどこかでみたいです。

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